セネカの『人生の短さについて』:要約と感想(光文社古典新訳文庫版)

人生、短いですか?
結構これは難しい問いです。短いという人も長いという人も一定数いそうな気がします。
たまたまこの駄文に辿り着いたあなたは、どう思いますか。あなたが生きる、その生は、十分に長いと感じますか?

本記事ではセネカ『人生の短さについて』について内容をサマリます。詳細は購入して読んでみてください。

なお本稿で触れる内容については光文社古典新訳文庫版に準拠します。なぜならそれでしか読んでないから。
加えてあらかじめ申し添えておくと、「名言集」みたいな感じの記事ではないのでそれを期待する人は別の記事を探してね。

セネカについて

セネカは1世紀のローマに生きた人物です。ネロ帝の補佐役として政治を支え、なんやかんやあって最終的には自死を選びます。ストア派(禁欲的な一派です)の哲学を基本として、理性に従うことを是としていました。

冒頭、以下のように始まります。

われわれが手にしている時間は、決して短くない。むしろ、われわれが、たくさんの時間を浪費しているのだ。
(中略)人生は、使い方を知れば、長いのだから。

人生の長さに対する、1世紀を生きたひとりの人間の答えです。真面目に調べれていないのですが、何も考えずとも今より寿命は遥かに短いはずです。平均寿命として今の半分くらい?(教えて知ってる人)
それでなお、短くないと言っています。そこから見たら今我々が生きるこの時間は無限のようなものかもしれません。

まるで永遠を生きるように生きる

セネカは、人生において大半の時間は、無意味な喜びや快楽、そして無計画に浪費されてしまうと主張します。

いったい、どうしてこんなことになってしまうのだろう。それは、あなたたちが、まるで永遠に生きられるかのように生きているからだ。あなたたちが、自分のもろさにいつまでも気がつかないからだ。(中略)湖から湧いてくるかのように、時間を無駄遣いしているからだ。

耳が痛すぎて中耳炎になったのかと思ったわ。いった。
1世紀からこんなこと言ってます。人間の本質情報って感じしませんか。20世紀過ぎても脆さに全然気がついてない。私達は死ぬのに、不死であるかのように様々に欲望します。

自分が死すべき存在だということを忘れ、五十や六十という歳になるまで賢明な計画を先延ばしにし、僅かな人たちしか達すること何年令になってから人生を始めようとするとは、どこまで愚かなのか。

賢明な計画=この場では「自らが真にやりたいこと」という感じでしょうか。セネカが言いたかったのは違うことかもだけど、つまりは周りの強制によって生きて人生を浪費してんじゃねえよ、てめえの人生なんだてめえのために生きろよ、という趣旨のことを丁寧に言ってます。出たくもない宴席に出てる場合じゃねえじゃん、ってね。

生きていることと存在していることは違う

ここまで読んできたあなたはなんとなくこの言葉の意味がわかるかと思います。
前者は自分の意志を持って自らの時間を全力で使っていること、後者は意思なく漫然と生きながらえているだけ、ということです。
では、どのように生きるべきか。

先延ばしは、人生最大の損失なのだ。(中略)未来を担保にして、今この時を奪い取るのだ。
(中略)あなたは、どこを見ているのか。あなたは、どこを目指しているのか。これからやってくることは、みな不確かではないか。今すぐ生きなさい。

今すぐ、本願に向かって生きろ、と単純にそれだけです。

過去も見たほうがいいよ

我々が生きる時間軸は、未来・現在・過去と大別されます。不確かな未来。刹那の現在。そして不可侵の過去。

過去というわれわれの時間の部分は、神聖で特別なものだ。それは、人間世界のあらゆる偶然性を超越し、運命の支配がおよばない。(中略)過去の日々は、あなたが命じれば、すべてが姿を表すだろう。あなたはそれを、意のままに、眺めることも、引き止めることもできる。(中略)多忙な人間の心は、まるでくびきをかけられたかのように、振り返って背後をみることができない。そうして、彼らの人生は、深い闇の中に消えていくのである。

過去は蓄積されます。蓄積されれば、立ち止まって掘り返して、そこから一粒の宝を見つけてくることもできるでしょう。でも他人の人生を生きるために忙殺されてたら振り返る暇もない≒蓄積されてないということになってしまい、与えられた有限の時間が無為に帰してしまいます。

つまりなんなのさ

短くない人生を生きるってつまりなに、みたいな気持ちになってきたと思います。私は今なってます。セネカの回答は以下です。

すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、叡智を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。そのような人は、(中略)自分の時代に、すべての時代を付け加えることができるからだ。(中略)われわれに、閉ざされた時代などない。われわれは、すべての時代に近づくことを許されている。

閑暇な人=自分の時間を生きている人と考えてください。嘘かもしれん。自信ない。
要点としては、「俺たちには過去の賢人たちが残してくれたものを知るすべがあるじゃん。過去の賢人が命を賭してつくりあげてきたものを、その無限の時間を学ぶことができるじゃん」です。
わかりやすくは、本です。本を読むことで、自分だけではない、他者の視点・過去を自分に取り込むことができます。そして、複数の視点を持って世界と対峙するのです。時間は、そのためにあります。

時が過ぎ去った。賢者はそれを記憶の中に包み込む。時が、今ここにある。賢者はそれを使いこなす。時がやってくるだろう。賢者はそれを予測する。賢者は、すべての時をひとつにつなげる。そうやって自分の人生を長くするのである。

過去を得て、それをもって現在を自在に操り、そして望む未来を予測できる形にする、とかそういう感じの意味かな。基本的にセネカの書いていることは過激派であり、理想論です。読んでいても「そうはいってもさあ……」と情けない呻きが口から耳から鼻から、漏れ出てきます。それでも、例えば「自分の時間を生きているのか?」という問いは向かい合うべきものであるし、「そもそも自分の時間とは?」という前提を立ち止まって考える機会をくれるものであります。
この本には間違いなく希求するものの一部が書かれていると思います。

資産形成も、ガジェット買うのも楽しいんだけど、寄って立てるものは自らの思考だと思うので、過去の賢人の考えに触れて、現在の自分と照らし合わせて、長生きしてみませんか。